認知の足場

AI駆動開発とソフトウェア設計を、認知作業の外部化と答え責任の観点から考えます。

ドキュメント形式を一本化する前に、誰が答えられるかを見る

人が開いた原稿を読む一方、門はほとんど閉じ、隙間に行の断片しか見えない。形式を門番にせず、誰が答えられるかを見る、という本稿のイメージ。

ドキュメントは、機械が追いやすい一つの形式に揃えるべきだ、という話をよく聞く。見出しと箇条書きがテキストのまま残り、差分が取れ、生成AIにも渡しやすい。表計算やワープロで見た目を組むと、中身の更新よりレイアウトに時間が溶け、残業が増える。だから作業の形式を揃えたい、という願いは、現場としては通りやすい。

先に結論をずらしておく。願いは、生産性の話としてわかる。ただし揃える対象を、個人の書き方の巧拙に置くと、話の種類が変わる。形式は職能の試験ではなく、誰が根拠を示し、誤りを検出し、採否を決められるかの配置である。本稿は、特定の記法へ移せ、という提案ではない。一本化の願いが、宛先の制度を個人のスキルへ翻訳してしまう点を、仮説として整理する。

揃えたくなる負担は、実在する

表計算やワープロで仕様や手順を書くと、セル結合、余白、印刷の見栄えが作業の本体になりやすい。内容は少ししか変わっていないのに、版を重ねるたびに見た目を直す。機械に読ませようとすると、書式の情報が先に増え、構造が見えにくい。

一方で、見出し・箇条書き・表がテキストとして残る書き方は、人間のレビューにも、エージェントへの依頼にも、履歴の比較にも乗りやすい。低い層の整形を外へ出しやすい、という意味で、先に書いた「AIを使うことは、「読みさえできれば何とかなる」に似ている」の外部化と同じ向きにある。

ここまでを、怠けや流行の話にすると、現場の痛みを見落とす。減らしたいのは、中身と関係の薄いレイアウト労働である。エンジニアが形式を揃えたいと思うとき、そこに能力の優越より、残業の置き場を動かしたい切実さがある、と読んだ方がよい。

減る負担と、残る負担は、宛先で割れる

対応は、次のように整理できる。

  作業側が揃えたい形式 提出側が今答えている形式
向いている相手 書く人、差分、生成AI 承認する人、顧客、印刷と捺印
軽くなりやすい工程 下書き、再生成、機械への入力 目視、コメント、既存のテンプレート
重くなりやすい工程 提出用への変換、説明、差し戻し 見た目の調整、版の管理
失敗の見え方 構造が壊れる、変換がずれる レイアウトが崩れる、宛先が読めない

作業側の生産性が上がることと、組織の残業が減ることは、同じではない。形式を一つにすると、片方の工程は軽くなる。もう片方は、変換と説明に移ることがある。負担は消えたのではなく、置き場が変わった、と見る方が正確である。

「読みさえできれば」で書いた条件と、ここは同じ線にある。読めて、検証できて、採否を引き受けられるとき、形式の外部化は足場になる。宛先が読めない形式へ一方的に揃えると、作業は速く見えても、通した理由をあとから答えられない。

制度の制約が、個人の書き方に翻訳されるとき

揃えたい願いは、しばしば宛先を動かせない。提出物のテンプレート、承認の慣習、顧客のツールは、個人の好みでは変わらない。変わらないものを前にすると、残る操作は一つになりやすい。書けない人、使わない人を、遅れている側へ置くことである。

地頭至上主義の系譜と認知資源の多元主義』で扱ったのも、この操作に近い。規範の存在は、誰かの信条表明ではなく、観察可能な排除効果に置いた。その一つが、構造的問題を個人の能力に読み替える言説である。受験論では、努力できる条件の不平等が、がんばらなかったからだ、という自己責任に翻訳される。認知労働では、過負荷が個人の対処能力の問題として語り直される。

ドキュメント形式の論争でも、同じ翻訳が起きうる。残業の原因が、提出先の制度にあるのに、個人の記法スキルの不足として語られる。だれでも覚えられる、と言いながら、覚えられないことを職能の欠如とみなす。条件が揃っていないことを、習得の失敗として見せる。極性は、論文の典型例と逆である。あちらは外部化を不正視する。こちらは、特定の外部形式を身につけていないことを不正視する。操作は同じである。

第6章の警告も、ここに来る。「道具で自己防衛しろ」は、構造を個人の対処へ押し戻す言説の再生産になりうる。全員が作業用の記法を覚えても、正本の宛先が提出用のままなら、レイアウト労働は消えない。移るだけである。

効く範囲と、効かない範囲

この読みが効くのは、形式を能力の門番にしない、という一点である。正当な外部資源は一つに固定できない。表計算もワープロも、すでに誰かにとって答えられる形として正当化されている。作業用の構造化テキストも、書く側と機械にとっては同じである。どちらかが普遍的スキルなのではない。宛先が違う。

効かない範囲もある。

第一に、見た目調整の労働が常に無駄だ、とは言えない。印刷、契約、現場の掲示のように、見た目自体が成果物である仕事がある。その工程を「機械に渡せ」と切り捨てると、別の答え責任を捨てることになる。

第二に、作業用の形式へ寄せれば検証可能になる、わけではない。見出しが付いただけの曖昧な文書は、機械にも人間にも切れ目を渡さない。形式は中身を良くする魔法ではない。先の「AIを「増幅器」と呼ぶ前に、何を増幅するかを見る」と同じで、入力の質が残る。

第三に、本稿は現場の文書を調査した報告ではない。一本化の願いと、個人化の言説が重なる点を、既存の語彙で読んだ整理である。特定の論争の当事者を裁く材料にはしない。

残るのは、記法の勝利ではない

サイト名の「認知の足場」は、一つのファイル形式を勝たせる枠ではない。低い層の負荷を外へ置き、人間が判断できる位置に立つための枠である。

AIによる認知スキャフォールディングとアイデア発散傾向の構造化』で扱った分業は、ここでも使える。整形と下書きは外へ出してよい。主張の強さと採否は、人間に残す。記法は、その枠になりうる。合格証にはならない。

答え責任と外部化の線引き:AI協働における認知作業の委譲原理』の境界は、正本と提出物を分ける理由になる。外部化できるのは、人間が根拠を示し、誤りを検出し、採否を決められる範囲に限る。作業用のテキストへ変換することは、パースの外部化である。変換結果を人間が検出・訂正できないなら、外部化ではなく放棄である。提出用へ戻す変換も、同じである。

だから欲しいものは、記法の一本化というより、AIが追えて、人間が採否できる正本である。それが作業用の構造化テキストである現場は多い。提出物が表計算やワープロである現場も多い。両方を認めると、願いは「全部を一つの形式にしろ」ではなく、「正本と提出物を分け、変換の誤りを人間が引き受ける」になる。残業が減るかは、その変換と検証を工程として数えられるかに依存する。数えなければ、負担は個人の習熟へ戻る。

揃えるなら、宛先を先に決める

形式を揃えたくなるのは、レイアウト労働と、機械への渡しにくさが実在するからである。その願いを、書けない人の問題にすると、制度は見えなくなる。

揃える対象は、個人の記法ではない。誰が、どの工程で、答えられるかである。作業の正本と、提出の写しが違うことは、失敗ではない。写しを正本と取り違えること、変換を検証しないこと、形式を職能の門番にすることの方が、壊れ方として大きい。

足場になるのは、読めて、検証できて、採否を引き受けられる配置のときである。形式が勝ったときは、足場ではない。

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