認知の足場

AI駆動開発とソフトウェア設計を、認知作業の外部化と答え責任の観点から考えます。

AIを使うことは、「読みさえできれば何とかなる」に似ている

生成り色の原稿がいくつかあり、1枚だけが水色枠で選ばれている。読んで採否する、という本稿のイメージ。

AIを使うことは、日本人がPCやスマホの普及によって、読みさえできれば何とかなる、という変化に似ている。

手で漢字を書けなくても、画面上の候補を見て正しい字を選べれば、文書は出せる。AIも、最初から全文を自分で書かなくても、出てきた文やコードを読んで採否できれば、仕事は前へ進む。

ただし、似ているからといって、楽になった、で終わらせる話ではない。漢字変換が残したものは「書かなくてよいこと」ではなく、「読むことで選ぶこと」だった。AIも同じで、残るのは生成ではなく、読んで引き受けることだと思う。

書く負担が減ったあと、残ったのは読む力だった

手書きの時代、漢字は思い出す必要があった。画数、部首、送りがな。書けない字は、辞書を引くか、別の言い回しに逃げるしかなかった。

PCの日本語入力は、この負担の置き場を変えた。読みを打ち、変換候補を見て、意図した漢字を選ぶ。スマホのフリック入力も、基本は同じである。手が字形を再現しなくても、目が字形を識別できれば、文章は成立する。

その結果、読めるのに書けない字が増えた、という感覚を持つ人は少なくない。これは能力が消えた、というより、日常の作業が「想起して書く」から「候補を見て選ぶ」へ移った、ということだろう。

ここで残った技能は、入力そのものではない。候補の中から、意味の通る字を見抜く力である。「せいかい」が「正解」なのか「盛会」なのかは、文脈を読んで決める。読めなければ、変換は便利ではなく、誤りの量産装置になる。

AIも、著作から選別へ重心を移している

生成AIの使い方も、この形に近い。

テーマを渡す。下書きが出る。コードが出る。要約が出る。人間は、それを読んで直すか、捨てるか、採用する。最初の一文を空白から書く手数は減る。残るのは、出てきたものが自分の意図と、使える根拠に耐えるかの判断である。

これは、プログラミングでも文章でも起きている。先に書いた「AIがコードを書く時代に、なぜ「お気に入りの言語」を持つのか」でも触れたように、作業の重心は書く速さから、レビューと検証へ移りつつある。

漢字変換との対応で言えば、次のように整理できる。

日本語入力 AI利用
読みを打つ 依頼と制約を渡す
変換候補が出る 文・コード・要約が出る
文脈を読んで選ぶ 根拠と失敗条件を読んで採否する
誤変換を見逃すと意味が壊れる 流暢な誤りを見逃すと成果が壊れる

「読みさえできれば何とかなる」は、怠けの推奨ではない。手が覚える負担を機械へ渡したあと、目と判断が残る、という観察である。

似ている点と、似ていない点

この比喩が効くのは、生産の細部を外部化しても、識別は残る、という構造である。

漢字変換は、書字の想起を外部化する。AIは、下書きの生成を外部化する。どちらも、人間が最初の形を全部手で作らなくてよくなる。代わりに、候補を見て、自分の責任で残すものが決まる。

しかし、決定的に違う点がある。

漢字の変換候補は、辞書という閉じた集合から来る。候補は有限で、多くは実在する語である。誤りは、主に「別の正しい語を選んでしまうこと」である。文脈が分かれば、誤りに気づきやすい。

AIの出力は、閉じた辞書ではない。存在しない引用、それらしい型、通るはずのない推論を、通る文章として出せる。誤りは、語の取り違えではなく、根拠のない完成品に見えることがある。読めるだけでは足りず、「これは何を根拠に言っているか」まで読めなければならない。

だから、AI利用を「読みさえできれば何とかなる」に重ねるなら、その「読み」は、漢字の識別より一段重い。流暢さを読むのではなく、壊れ方を読む必要がある。

読めない人にとって、外部化は足場にならない

漢字変換が便利なのは、読める人にとってである。読めない人が変換を重ねても、誤変換の山ができる。機械は、意図を代わりに持ってはくれない。

AIも同じである。出力を評価できない状態で生成だけを増やすと、作業は速く見えるが、採否の根拠が残らない。あとから「なぜこれを採用したのか」と問われても、答えられない。

答え責任と外部化の線引き:AI協働における認知作業の委譲原理』で整理したのは、まさにこの境界である。外部化できるのは、人間が根拠を示し、誤りを検出し、採否を決められる範囲に限る。読めないものを、読めるふりして通すことは、外部化ではなく放棄である。

地頭至上主義の系譜と認知資源の多元主義』の立場から言えば、頭の中だけで書いたか、機械を使ったかは、正当性の基準にならない。使った出力を検証し、統合し、その使用に責任を持てるかが残る。PCで漢字を選んだことも、AIに下書きを出させたことも、そのあとの引き受け方で決まる。

「書かなくてよくなった」は、「書けなくてよい」ではない

ここでも、漢字の話は警告になる。

書けなくても読める、という状態は、日常の入力では足りることが多い。しかし、初めて見る語、専門用語、固有名、微妙な違いでは、書けた経験がある人のほうが、候補の異常に気づきやすい。読む力は、書いた経験から育つ面がある。

AIでも同じことが起きると思う。すべてを生成に任せ、自分では一文も、一行も引き受けないでいると、異常を感じる物差しが育たない。お気に入りの言語を一つ深く使う、という先の記事の主張も、ここに接続する。書く手数を減らすほど、どこかには、自分が書いて読める領域を残す必要がある。

AIによる認知スキャフォールディングとアイデア発散傾向の構造化』で扱ったのも、低い層の負荷を外へ出しつつ、主張の強さと採否は人間に残す、という分業である。スキャフォールドは、人間を不要にするためではなく、人間が判断できる位置に立つための枠である。

何とかなる、の条件

「読みさえできれば何とかなる」は、条件付きの文である。

日本語入力では、読み、文脈、候補の識別がある。それが揃って、初めて書字の外部化が足場になる。AIでは、依頼の出し方、出力の読み方、検証の手段、採否の記録がある。それが揃って、初めて生成の外部化が足場になる。

何とかなるのは、読める人が、読んだ結果に答えるときである。読めないまま通すなら、PCもスマホもAIも、同じように誤りの増幅器になる。

AIを使うことは、書くことから解放されることではない。書く手数を機械へ渡したあと、読む責任が残ることである。その意味で、日本人にとって馴染みのある変化の延長にある。馴染みがあるからこそ、楽になったと誤解しやすい。残すべきなのは、手の記憶ではなく、目と判断である。

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